村松大師堂とへんろみち

検証『いにしえのへんろみち~宇摩平野と法皇山脈~』

コラム(1)村松大師堂とへんろみち

あれは、いつの日のことだったでしょうか・・・

戸川公園でお接待を行っていた日のことです。

地元のご婦人が二人、戸川公園の休憩所にやって来ました。

そのご婦人方は戸川公園近辺の住民ではなく、村松大師堂をお参りした後、戸川公園にやって来たのですが、元々、戸川公園に来る予定ではなく、村松大師堂をお参りした後、なぜかここに来てしまったそうです。

その時、ご婦人方は戸川公園でお接待を行っていることに驚き、「ここに来たのも村松のお大師さんのお導きですね」と喜んでおられました。

ほどなくして女性のお遍路さんが休憩所を訪れ、ご婦人方がお遍路さんの話し相手になってくれました。

「今日はお大師さんのお導きでいい日になりました」

女性のお遍路さんが三角寺へ出発された後、ご婦人方も喜んで帰って行きました。

--村松のお大師さん?

それまで村松大師堂のことは知りませんでしたので、「お導き」と言われてもピンときませんでした。

その後、地元の方に村松大師堂の場所を教えてもらい、工場地帯の中にあることを知りました。

ですが、村松大師堂を訪れることはありませんでした。

そして、年月が流れ、2018年4月2日こと。

四国別格二十霊場第七番札所の出石寺を参拝した後、第八番札所の十夜ヶ橋を訪れました。

出石寺まで歩いて上り、かなり疲労が溜まっていたこともあって、十夜ヶ橋まで下るのに時間が掛かりました。

結局、納経の時間には間に合いませんでしたが、十夜ヶ橋の下のお大師さまに合掌だけでもしようと思い、橋の下に行きました。

すると、野宿をされるお遍路さんがいました。

年配の男性で十数回歩き遍路をされているそうです。しかも野宿がメインと言う。

しばらくお遍路さんと話をしましたが、遍路文化に造詣が深く、四国遍路に関する様々な知識をお持ちのようでした。

そして、この時、お遍路さんから出た話題は、なんと『村松大師堂』でした。

--ここで村松大師堂の話がでるとは・・・

この時、ようやく村松大師堂に興味を持ちました。

お遍路さんの話によると、

弘仁六年、空海が三角寺を訪れ、十一面観世音菩薩像と不動明王像を刻んで安置し、加えて、三角の護摩壇を築いて二十一日間の降伏護摩の秘宝を施されたと伝えられていますが、空海が当地に滞在していた間、身を寄せていた場所が、現在の村松大師堂であり、空海はここを拠点にして三角寺に登り、また、仙龍寺にも足を運んでいたようです。

--これこそまさにお導き!!!

お遍路さんの話を聞いて、「村松大師堂が呼んでいる」と直感し、先日、初めて村松大師堂を訪れました。

(1)村松のお大師さん

現在、村松大師堂は四国中央市村松町の工場地帯にあります。

讃岐街道の海岸線沿いにひっそりと建っていて、工場地帯の騒々しさはあまり感じられません。

山門や石柱門は無く、入口には、へんろ石と松があり、隣接して手水舎が建っています。

整えられた境内は至ってシンプルで、落ち着いた空気に包まれています。

大師堂の右手、軒下の扁額には、空海ゆかりの石の絵画が設置されていました。大師堂の内陣の左側にその石が保管されていました。

『空海踏み止めの石』と呼ぶようです。

また、大師堂の前、右手に建つ石碑には『遺跡 五左エ門大師』と刻まれています。

当大師堂の縁起にある『関五左エ門』という人物のことでしょう。

村松大師堂は『のぎよけ大師』と呼ばれていて、その云い伝えの話をリンクしましたので、参考にしてください。

のぎよけ大師の昔話

そんな村松大師堂は、地元では『村松のお大師さん』と呼ばれて、多くの住民から親しまれています。

(2)へんろ石

さて、初めて村松大師堂を訪れましたが、最初に目に留まったのが、古いへんろ石でした。『三角寺』と大きく彫られていたからかもしれません。

別の面には『前神寺』の名も刻まれています。

--ここにへんろ石って?

いつ建てられたものか気になります。

松で隠れている面を調べると、『明治二十四年十一月』に建てられたものであると分かりました。

へんろ石の隣、松に隠れるように建っている標石には、『こんぴら道』と刻まれています。すなわち『讃岐街道』のことで、村松大師堂は讃岐街道沿いにあります。

--へんろみちなの?

へんろみちは、新居浜市から四国中央市に入った後、国道11号線から右に逸れて讃岐街道を進みます。その後、へんろみちは、中之庄で讃岐街道から分かれて三角寺へ向かうのですが、村松大師堂の前にへんろ石が建っているとなれば、『昔、別のへんろみちが存在していたのではないか』という考えが浮かんできます。そういう意味でも、村松大師堂のへんろ石はかなり貴重なものと考えられます。

--もしかしたら、今回のお導きはこの『へんろ石』だったのでは・・・

ふとそう感じて、なにかワクワクする感覚さえ感じました。

(3)へんろみちの検証

さて、村松大師堂から三角寺へ至るへんろみちはどのルートなのでしょうか?

昔の地図と現在の地図を照らし合わせながら検証してみることにしました。

 

参考にした昔の地図は、おそらく明治初期のものでしょう。

明治二十二年十二月十五日に町村制が施行され、宇摩郡でも村の合併が行われました。

この地図に記載されている村名を確認すると、例えば、金川村が存在していて、まだ金田村が存在していないことを示しています。

すなわち、この地図は明治二十二年より以前に作製されたものであることが分かります。

また、この地図では病院という名称が使われています。日本で病院という概念が広まったのは、明治元年の『西洋医術許可の布告』以降のことですので、この古い地図は明治維新から明治二十二年までの間に作製されたものと判断できます。

 

まずは、村松大師堂の位置の確認です。

昔の地図に村松大師堂と思しき大師堂が記されていました。

現在、村松大師堂は、讃岐街道のかぎ型の折れ曲がりの右側にありますが、古い地図では、折れ曲がりの左側に記されています。昔、大師堂は現在の村松浜公会堂側にあったと考えられます。そうであれば、へんろ石の場所も昔は道の向かい側に建っていた可能性があります。

そして、へんろ石の向きは、前神寺は讃岐街道を西へ進むことを示し、三角寺は村松橋の方を示していたと考えれば、道と方向が合致します。

また、『空海踏み止めの石』の云い伝えにあるように、昔は石を伝って川を渡っていて、川を渡った先に道があったと考えられます。

昔の地図にもその道が記されていて、現在もその道が存在していることから、村松大師堂から三角寺へは村松橋を渡り、かぎ型の道を進むところから始まると考えられます。

村松大師堂から三角寺へ向かうルートを検証するに当たって、すぐに思い浮かんだのは、現在の遍路地図で記されている山神社登山口ルートです。

三島川之江ICの南東にある山神社の麓から三角寺へ向かうへんろみちです。

昔の地図を見ると、山神神社という表記があり、現在の地図と照らし合わせると、ほぼ同じ位置にあたります。そして、山神神社へ向かう道が一本あり、『山道』と記されています。

--なんと『山道』とは、とても興味を惹かれる表記です・・・

この『山道』に通じる道が村松大師堂から三角寺へ向かうルートだったのではないかと考えられます。

 

下記の地図の通り、昔の地図と現在の地図を照らし合せてルートを検証してみました。

 

村松大師堂から川を渡った後、三皇神社に至るルートは、おそらく平木神社の横を通っただろうと推測しました。

三皇神社から山神神社までは昔の地図と同じルートが現在の地図でも確認できますので、このルートでほぼ間違いないと考えられます。

その後、現在の三島川之江IC近くで生まれ育った年配の男性(よく戸川公園で話をする方)から山神社ルートについて話を伺いました。

昔、60年以上前のこと、現在の山神社登山口から三角寺へ登る道は存在しておらず、山神社の東側から三角寺へ登っていたそうです。後に、現在の山神社ルートが開通し、昔の道を登らなくなったと教えてくれました。すなわち古地図に記されている山神社の東側を通る山道が昭和の時代まで存在していましたが、現在は眠ってしまっているようです。

さて、見落としていたことがあります。

戸川公園から三角寺へ向かうと、横尾から平木を通り山道に入ります。

山道に入って最初に現れるへんろ石(倒れかかっている)に『左村松大師道』と刻まれています。

これを見落としていました。

村松大師堂から現在の戸川公園まで戻ってから三角寺へ向かっていたのでしょうか。

そんなお遍路さんもいたのかも知れませんが、やはり別のルートの存在が見え隠れしているように感じます。

古地図を見直すと、村松村、下柏村、上柏村の山村と妻鳥村との境界線に沿って用水路(分水井手)が作られていて、村松村と妻鳥村の境界線に沿って道が通っています。その道の延長線、用水路に沿って三角寺へ向かっていたのではないかと思われます。

現在の県道333号線です。県道333号線が新設される前の地図には、その前身となる道が旧伊予三島市と旧川之江市との境界線に沿って通っていて、黒波瀬池の西側、上柏町の平木へ通じる道と繋がっていました。

そして、平木の集落には古いへんろ石が残っていて、道はこの場所に繋がっているのです。さらには、おかげ地蔵の手前で戸川公園から三角寺へ向かう遍路道と合流し、山道に建つへんろ石(村松大師道と記されている)と繋がるのです。

これで、村松大師堂に建つへんろ石と平木のへんろ石、そして、山道のへんろ石が繋がりました。

ですが、どうもしっくりこない感じがします。

上柏村と妻鳥村の境に沿って上って来た後、わざわざ契川に沿って平木集落へ向かったのでしょうか。そのまま上柏村と妻鳥村の境を進むことはできなかったのでしょうか。そんな疑問が浮かび、さらに検証を続けることにしました。

そして、1974年に作成された地図を見つけました。

今から約44年ほど前に作成された地図に何か手掛かりはないものかと確認してみると、なんと村松大師道と思われる道が記載されていました。

山道は点線で記されていますが、太陽の家の前身である旧川之江学園の西側を通過して、上柏村と妻鳥村の境に沿って三角寺へ上る道が記されています。

三角寺道の林道に建つ『左村松大師道』と記された標石は、現在の上柏町と妻鳥町の境付近に建っていて、この場所で旧川之江学園の西側から上ってきた道と合流するようです。確かこの標石付近に三角寺道とは別の林道が残っています。

ちなみに、この地図には、山神社から三角寺へ至るルートの旧道も記されており、この地図が作成された当時、かなり念入りな調査が行われたと思われ、そいう点からもこの道が村松大師道である可能性が高いと考えられます。

かつて空海が身を寄せていたと伝わる村松大師堂から三角寺へ至るへんろみちの存在は、今となっては推測の域を超えられませんが、明治二十四年に建てられたへんろ石が、何かメッセージを送ってくれているように感じてなりません。

今、数多くのお遍路さんが歩いている遍路道の他にも、時代の流れの中で、いつの間にか忘れられて、眠ってしまっている『いにしえのへんろみち』があり、いつの日か蘇る時を待っているのかもしれません。

そんな『いにしえのへんろみち』と出会えることを願い、検証を続けてまいります。