検証『いにしえのへんろみち~宇摩平野と法皇山脈~』
コラム(5)三角寺道の真相に迫る(Ⅱ)三角寺付近のへんろみち
2018年2月下旬のこと。へんろみち保存協会のF氏とY氏が遍路道保全作業のため、四国中央市にやって来ました。初日は、三角寺奥之院道と市仲堀切道、土佐北街道平山坂にて作業が行われ、翌日、三角寺と西金川を結ぶ昔の遍路道、金川道で作業が行われました。私も金川道での作業に参加させていただき、遍路道の保全作業に関する様々なことを教授いただきました。
西金川から三角寺まで作業をしながら上って来て、折り返して、西金川へ下ろうとした時、「昔、この道は無かった」とFさんが言いました。
この道とは、三角寺の前を駐車場を出て左へ進み、金川道の分岐点を過ぎた所のY字の左側の市道のことです。現在、上柏町から上って来た林道から市道に入って左へ進み、舗装された市道を下って三角寺の石段に至りますが、昔、この舗装された市道は存在せず、後に山の斜面を削って新設されたそうです。
とても興味深い話です。
その後、明治初期に作成された古地図と出会い、三角寺付近の道を調べてみました。
古地図によると、上柏村から三角寺村を結ぶ道、いわゆる三角寺道は、三角寺の西側を通り、三角寺の南側から三角寺に至っています。
現在は、三角寺の北側から東側と通り三角寺へ至っていますが、古地図には記されていません。明治から大正、昭和と時代が移り変わる中で徐々に新しい道が整備されてゆき、現在の形になったのは昭和に入ってからのことで、およそ44年前に作成された地図を確認しても、まだ完全には整っていません。
本来の三角寺道は、三角寺の西側を通り、南側から三角寺へ至っていたことが分かります。
そこで、本来の三角寺道を検証してみました。
上柏町から林道を上り、舗装された市道に入ります。左へ進み、右へカーブする途中の右側に文政七年に建立された標石が建っています。この標石の前を通過することは確かです。
その後、ほどなく新道(市道)と旧道(本来の三角寺道)との分岐点に差し掛かります。右に逸れる整備された道のすぐ手前、雑草に覆われた細い道があります。これが旧道です。
旧道に入ると、道に沿って石仏が建ち並んでいます。これは三角寺の新四国です。
畜舎の裏手を新四国の石仏を辿るように進み、雑草が生い茂る場所を通過します。
畑の傍を通過して林道を抜けると舗装された道に入ります。この付近に、新四国の石仏が散らばった形で建っているため惑わされますが、舗装された道を右へ進み、三角寺の方丈の方向とは逆に進んで左へカーブします。
そのまま直進してほどなく、新四国との分岐点に差し掛かります。舗装された道から左に入るのが新四国で林道を抜けると大師堂に至ります。
三角寺道はそのまま直進して、右へカーブして、次の二又を左へ進み、ほどなく三角寺奥之院道に至ります。
ここから左へ入り、階段状の坂を下ります。
本堂へは入らず、そのまま坂を下ると、古い石段に至ります。この石段を上ると本堂の前に到着します。
これが本来の三角寺道です。
ちなみに古い石段の右側に昔の道(金川道)が残っていて、新しい石段の中ほどに繋がっています。その先は削られて無くなっています。
この本来の三角寺道は、未舗装で昔の状態で残って区間もあり、いにしえの風情が感じられます。
時代の移り変わりとともに、遍路道が変わってゆきますが、今も尚、残っている昔の遍路道が、未来へと受け継がれてゆくことを切実に願います。