戸川公園とへんろみち

検証『いにしえのへんろみち~宇摩平野と法皇山脈~』

コラム(3)戸川公園とへんろみち

戸川公園でお接待を行うようになってから丸四年が経ちました。

この戸川疎水記念公園は、銅山川疎水事業の完成を記念して整備された公園で、略して戸川公園と呼ばれています。

春には桜が咲き誇り、新緑の時期にはツツジが映えて、訪れた人々の目を楽しませてくれます。また、一年を通して流れる清らかなせせらぎが、休憩所に癒しのひとときを演出してくれます。

そんな戸川公園は、周辺地域の住民や数多くのお遍路さんに親しまれています。

さて、戸川公園でお接待を始めてから今までの間に、地元の方々やお遍路さんから戸川周辺の遍路道に関する様々な話を聞きました。

現在、ごく当たり前のようにお遍路さんが戸川公園の前を歩いていますが、昔はどのような道だったのでしょうか?

古い地図を参考に検証してまいります。

(1)戸川周辺のへんろみち

明治維新以降明治二十二年以前の間に作製されたと思われる古い地図を見ると、『戸川』という表記があり、『遍路道』の表記もあります。そして、戸川を通過して三角寺へ向かう遍路道が記されています。現在、お遍路さんが歩いている遍路道と概ね合致しているようです。

また興味を惹かれる表記があります。

それは『三角寺村通路』です。かつて、上柏村、下柏村、村松村、中曽根村、三島村、中之庄村など、この地域と三角寺村を繋ぐ主要道が『三角寺村通路』で、遍路道は戸川で三角寺村通路と合流して三角寺へ向かっていました。

現在の戸川公園は、地元住民にとってもお遍路さんにとっても、三角寺へ向かう重要な場所だったのでしょう。

(2)真念標石から戸川公園まで

さて、戸川公園でお接待を始めてから間もない頃、戸川公園付近の住人からこんな話を聞きました。

「発電所付近でお遍路さんが迷っている」と。

確かに銅山川第一発電所の傍に建つ『しこくのみち』の道標の前で迷っているお遍路さんをよく見かけました。時には、戸川公園ではなく整備された坂を上って行く(真念標石の方へ戻る)お遍路さんを追いかけて、三角寺への道を教えたこともありました。

その頃は、自身の四国遍路のために購入した『歩き遍路地図』に掲載されているルートのことだけしか知らなかったため、発電所付近で道に迷う理由が理解できませんでした。

その後、戸川公園の西にある桃山新墓園に建つ『真念標石』から松山自動車沿いの道から右に逸れて、墓地を抜けて高台を通り、戸川公園に至るルートがあり、これが本来の遍路道であることを知りました。

その頃、歩き遍路地図には、真念標石から松山自動車道に沿って進み、市の水道局関連施設の角を右折して戸川公園に至るルートが記されていて、本来の遍路道は記されていませんでした。

反面、『しこくのみち』の道標は、真念標石から墓地と高台を経由して戸川公園に至るルートを示しています。

--なるほど、これが原因で戸惑って迷うのだろう・・・

そう思いました。

さて、『しこくのみち』の道標が建つ整備された道は、昔、存在しておらず、昭和以降に整備されたものです。

本来は、元治元年に建てられた標石と中務茂兵衛の標石を結ぶ坂道を通っていました。

「お遍路さんはこの坂を下っていた」と、戸川付近の様子が大きく変わる頃からこの地でお遍路さんを見てきたの男性が教えてくれました。

道が整備された時、元治元年建立の標石の位置と向きが変えられたようで、その後は、新たに整備された道を通るようになったようです。

(3)三角寺村通路と三島村通路

古地図では三角寺村通路の起点は上柏村の中央、現在の上柏集会所付近です。ここに古い標石が残っています。

三角寺村通路と三島村通路が上柏村の中央で繋がっています。

古地図を参考に現在の道を辿ってみると、恵照寺の北側の三叉路に標石が建っていて、三島町(明治23年合併)を指し示しています。

さらに道を辿ると、県道124号線の辻の角に標石が建っていて、さらに北へ下ると、一本松跡に標石が建っています。

古い標石が、かつて三角寺村の中央から三角寺へ向かうルートがあったことを示しています。

おそらく中之庄のへんろわかれからそのまま讃岐街道を進み、三島村の中央を経て、三角寺へ向かったお遍路さんもいたのでしょう。

(4)戸川周辺の変貌

お遍路さんは元治元年建立の標石から中務茂兵衛の標石に向かって下っていたことを教えてくれた男性がさらに教えてくれました。

「この道は川だった。瀧があって、ここは滝ノ下と呼ばれていた」と言う。古い地図では新谷川と記されています。そして、お遍路さんは中務茂兵衛の標石から新谷川に沿って進んだのではなく、新谷川を渡って、民家の間を抜けて、さらに赤之井川を渡っていたそうです。

古い地図では、新谷川に沿って道が通っていたことが確認できます。しかもその道の名称は『三角寺村通路』と記されています。

戸川公園のすぐ手前に住む夫人(ここで生まれ育った女性)にも昔の話を伺いました。

すると、ちょうど家の前辺りが瀧になっていて、すこし下った場所に淵のような水溜まりがあったそうです。そして、川に沿って細い道があったそうです。川は銅山川第一発電所建設の際に埋め立てられたと教えてくれました。

おそらく銅山川第一発電所の建設工事と戸川疎水記念公園の整備工事が行われてる期間、お遍路さんは戸川公園の前を通ることができなかったようです。

では、それはいつ頃のことでしょうか?

松柏村の時代。松柏村は明治22年12月の町村制施行に伴い、上柏村、下柏村、村松村が合併して誕生しました。

昭和19年4月、三島町、中曽根村、中之庄村との合併により消滅しましたが、昭和25年10月に分離、松柏村は復活しました。

その頃、銅山川疎水事業が進められており、昭和28年の柳瀬ダムの完成、銅山川第一発電所の運転開始、昭和29年の戸川疎水記念公園の完成までの間に戸川周辺は大きく姿を変えました。

ちなみに戸川疎水記念公園が完成した年、昭和29年11月に松柏村は合併により消滅しました。

古地図によると、元々、城川と馬瀬谷川が戸川あたりで接近していて、その間に道があり、二本の川は合流することなく別々に流れていました。

戸川あたりから、城川は赤之井川と名前を変え、馬瀬谷川は新谷川と名前を変えています。

その二本の川の間の道を削り、馬瀬谷川を城川に合流させる工事を行い、新谷川の流れを止めて埋め立てたようです。その上に新たに道が整備されました。

そして、二本の川が合流する地点の馬瀬谷川側に新たに橋が付けられました。

それが『きだ橋』です。昭和27年3月に新設されました。

戸川周辺で疎水事業関連の工事が始まった後、すくなくとも新しい道が通り、『きだ橋』が付けられるまでの期間、お遍路さんは戸川公園の前を通れなかったと考えられます。また、銅山川第一発電所の建設工事や戸川疎水記念公園の整備工事が完了するまでに、通れない期間があっただろうと考えられます。

そんな当時の状況を知っている男性が教えてくれたルートは地図の通りです。

元治元年建立の標石から中務茂兵衛の標石へ下った後、民家の間を抜けて赤之井川の古い橋を渡ります。車道に出て右へ進み、戸川公園の手前で左へ、墓地の細い坂を上ります。急な坂道が続きます。ピークを過ぎた後、急な坂を下り、水田の間を通り抜けて、現在の遍路道と合流します。

昭和のある一時期、数年間だけの迂回ルートですが、戸川にこんな遍路道があったことを知る人が少なくなりつつあります。

戸川周辺を大きく変え、遍路道にも大きな影響を与えた銅山川疎水事業のことを知り、当時の状況を想像しながら、戸川の遍路道を歩いてみてはいかがでしょうか。きっと、現在、目に映る光景とは違う戸川の一面に触れることができることでしょう。