三角寺道の真相に迫る(Ⅰ)

検証『いにしえのへんろみち~宇摩平野と法皇山脈~』

コラム(4)三角寺道の真相に迫る(Ⅰ)平木のへんろみち

四国八十八箇所霊場第六十五番札所の三角寺へ登る道は幾つかありますが、戸川公園から登る道を歩くお遍路さんが圧倒的に多いことでしょう。

さて、遍路道ボランティアを始めた頃、当時、第一期の区切り打ち歩き遍路中で、まだ四国中央市にある遍路道を歩いたことがなく、どんな道なのかまったく知りませんでした。

そこで、「まず地元地域の遍路道を知ることから始めよう」と思い、三角寺へ登る遍路道を歩いてみました。

戸川公園を出発して、道標に従って歩いてゆくと、横尾と平木の境界付近に建つ標石の傍に簡単なルートマップがありました。

そのマップを見ると、ここでルートが二手に分かれていました。

一つは、標石が指し示すルートで、標石から右へ、用水路に沿って進む道でした。この道が現在の主流の遍路道です。

もう一つは、標石の裏手に下り、橋を渡って平木の集へ通じる道でした。

二手に分かれた道は「おかげ地蔵」のすこし手前で合流していて、実際に歩いて確認しました。

その時は、平木の集落を通る道は荒れた川道で、しかも途中まで小川と道が同化していて区別がつかない状態でしたので、この道を歩くお遍路さんはいないだろうと感じました。加えて、この道は遍路地図に掲載されていませんでしたので、あまり気に留めることもせず、スルーしてしいました。

最近になって、昔の遍路道のことを調べ始めたことがきっかけで、古地図で遍路道を確認した時、この道が浮かび上がってきたのです。

(1)古地図で検証

2017年11月の遍路道のゴミ拾いの日、四人が手伝いに駆けつけてくれました。集合場所は戸川公園。準備を整えて三角寺へ向かいました。途中、山上集会所の敷地内にある小林一茶腰掛け石や標石を確認したり、地元の住民と話をしたり、ウォーキングを楽しむような雰囲気でした。

さて、万延二年建立の標石から右へ、用水路に沿って進む道に入った時、J氏が呟くように言いました。

「ああ、水路道か。後でつけたんだね」

リタイアした後、ウォーキングを楽しんでいるというJ氏は、登山だけでなくいろいろな場所を歩いていて、道について造詣が深いようです。

そのJ氏の言葉を耳にして、ふと、万延二年建立の標石の裏手、平木集落を通る遍路道のことが思い浮かびました。

--もしかして平木の道が本来の遍路道だったのでは?

そう思いましたが、その時はゴミ拾いに専念して、平木の道について深く追求することはありませんでした。

その後、明治初期に作成された古地図と出会い、「いにしえのへんろみち」の検証を始めました。

古地図にも現在の戸川公園から三角寺へ登る道が記されていて、三角寺村通路と名付けられています。

古地図と現在の地図を照らし合わせながら、三角寺までの道を辿ってみると、三角寺村通路は、横尾から平木に入り、契川に架かる橋(平木橋)を渡り、平木の集落を抜けて三角寺へ向かっています。

現在主流の遍路道、すなわち、万延二年建立の標石から右へ、用水路に沿って進む道は記されていません。

だだし、用水路は記されていて、大井手と名付けられています。

古地区の大井手のルートを現在の地図で照らし合わせると、大井手のルートがそのまま道に変っています。

J氏の言葉通り「後づけの道」である可能性は否定できず、平木の集落を抜けて三角寺へ向かう道が本来の遍路道だったと推測できます。

(2)標石で検証

続いて古い標石に注目してみます。

山上集会所の前に古い標石が建って、十九丁と記されています。この標石は移設されたもので、山上集会から百メートルほど東に建てられていたと考えられます。

続いて、元文四年建立の標石が建っていて、そのすぐ先に天保十四年建立の標石が建っています。

元文四年建立の標石に十八丁と記さていて、十九丁標石とタイプが似ていると感じます。

一方、天保十四年建立の標石は立派な四角柱で、十九丁標石と十八丁標石とはタイプが異なります。

ちなみに元文四年は西暦1739年、天保十四年は西暦1843年、両者に百年余りの年の差があります。時代の移り変わりに伴い、標石も立派なものに変っていったようです。

遍路道が二手に分かれる場所にある標石は万延二年(西暦1861年)に建立されたもので、天保十四年建立の標石と同じ四角柱です。

さて、平木の集落にある標石には十四丁と記されていて、十九丁、十八丁の流れに続いているように感じられ。そして、標石のタイプも天保や万延とはまったく異なり、天保より以前に建てられたものだと推測できます。

また、万延二年建立の標石から右へ、水路に沿って進み、橋を渡ってさらに契川に沿うように進み、遍路の絵が描かれた小屋の横を通過した後の左カーブに立派な四角柱の標石が建っています。この標石は昭和十年(西暦1935年)に建てられたものです。このルートには江戸時代から明治初期に建てれた標石は無く、おそらく明治以降から昭和初期の間にこのルートに移行されたのだろうと推測できます。

古い標石の存在から、本来の三角寺道は、古地図に記されている通り、横尾から平木集落を抜けるルートであり、万延二年建立の標石は、明治以降に道が整備されてゆく中で、位置が変えられたのではないかと推測できます。

(追記)

平木の標石(十四)を通過した後、川道を上りますが、川道の途中に古い標石が残っていました。タイプは十六丁の標石と同じように思えます。ちなみに十六丁の標石は移設されて十四丁の標石の東にあります。

川道の標石が平木を通過するルートこそが本来に遍路道であることを証明しています。

(3)平木のへんろみち

平木の集落を抜ける遍路道の現状です。

➀万延二年建立の標石の裏手へ下る。②橋を渡って左斜めに進む。③二又を右へ入る。④林道の雰囲気を感じる道を進む。⑤平木の集落へ入る。⑥急な坂を上る。⑦生活道に合流して右へ、標石の方へ進む。⑧標石の前を通過して、左へカーブし、坂を上る。➈急な坂に変る。⑩道の雰囲気が変わり、右へカーブする場所が林道入口。⑪林道入口は枝葉に覆われている。⑫林道は小川と道が同化して区別ができない荒れた道。⑬後半は小川と道が区別できるように変る。⑭現在主流の道に合流し、おかげ地蔵へ向かう。

今回は、現在の戸川公園から字城と字横尾を通り、字平木に入ってから三角寺へ向かう遍路道を検証してまいりましたが、あくまでも推測です。

ですが、明治初期に作成された古地図には「遍路道」という表記があり、村と村を結ぶ通路と重複している道はそのまま「通路」と表記されていますが、古地図が作成された当時、「遍路道」が認識されていたことは確かです。

ならば、なぜ万延二年建立の標石から用水路に沿って進む現在の主流の道が記されていないのか?

あくまでも推測ですが、古地図で記された「三角寺村通路」が「遍路道」すなわち「三角寺道」であり、万延二年建立の標石から用水路に沿って進む道は、明治以降から昭和初期までの間に新設された道であり、時代の移り変わりとともに主流の遍路道へと変わっていったのでしょう。

さて、「三角寺道」の変化が顕著に見られる場所があります。次回は、その道の検証でございます。